「文学は、わざわざ大学で勉強するものではない」のか?


文学を勉強しても、意味がない?


以前、といってもだいぶ昔の話。僕が「大学で日本文学を勉強した」と自己紹介したことに対して「文学なんて個人が好きに読めばいい。わざわざ大学で勉強するものでもない」と、批判してきた人がいた。

その時僕は「いや、でもしかし・・・」と、戸惑いつつも言葉を返すことができなかった。今よりもずっと若く、理屈よりも感情の方が強かったし「この人は、どうしてわざわざそんなことを言うのだろう?」と不快感や、人前で批判されたという恥ずかしさもあり、冷静に考えることができなかったのだった。

文学作品を、研究するということは


先日、ある本(文学についての研究書籍)を読んでいて、ふとこの出来事を思い出した。そしてあらためて「文学作品について研究(考察する)こと」について考えてみた結果、今私はこんな風に考えている。

作品を読んで「どこかモヤモヤした」感覚になることがある。それは、作品に対して「自分が把握している言葉では、うまく説明できない感覚」を抱いたということだろう。そのモヤモヤをモヤモヤのままにして、作品を楽しむ人もいる。同じ作家の別の作品を読んで、モヤモヤの中を進んでいこうとする人もいる。

私は、どちらかというと「どうして自分は、この作品に〇〇を感じたのだろう」と、少し立ち止まって考える事が多い。そして文学(小説)だけでなく、映画や絵画において同じような事を考えてみたりもする。

そんな時、作品や著者について解説された書籍を読み、新しい情報や見解を得ることで「そういうことだったのか」と、霧が晴れていくような感覚になることがある。モヤモヤが言語化され、疑問が晴れていく爽快感(のようなもの)もある。そして作品を読み返してみる。納得したり、新しい視点が生まれたり、また別のモヤモヤが見つかる。

こうして出会った作品と解説のおかげで「ものごとに対する自分なりの見方」を育てていくことができたと思う。そこに社会に出て実体験を加えることで、今自分が取り組んでいるような仕事の基盤を作ることができている。これは間違いなく「そうだ」と言える。

必要とされているならば、そこには存在する意味がある。


文学作品を読む、ということは個人的な行為である。しかし私のように、読んだ作品に対して「わからないことを、もう少しわかるようになりたい」と感じてしまう人には解説してくれる人が必要になる。彼らは、私にとって不明な点を明らかにしてくれる必要な存在である。

それを教えてくれる場に参加し、今の自分に理解できないことを掴みたい。できることなら、そこに自分の体験と解釈を加え(たとえそれが、直接文学の世界とは関係のないことになったとしても)世の中に表現していきたい。たぶん10代の自分は、そう考えていたのだと思う。だから「大学に行ってまでも、日本文学を学ぶ」ことを選択したのであり、そこに迷いが存在することもなかったのだと思う。


10代の僕が、必要としていたように。


仕事であれ、趣味であれ、一人の人間が数年かけて取り組んできた事柄には、大切にしている「想い」がある。それを無思慮に批判することは「よろしくないこと」である。そして、そのような表面的な印象だけで語られた他者の言葉に、一喜一憂するべきものではない。必要としてくれる誰かと自分のために、追求してみればいいだけのことである。

あらためて私は、日本文学を専攻してよかった、と考えている。これからどうなるかはわからないが、たぶんずっと、そう感じていられると思う。そして遠くない未来、10代の頃の僕が必要だったように「文学作品について、考えるきっかけ」を提供できる仕事をしてみたい。あらためてそう感じたのでした。


関連:ストーリーを追う読書から、自分を写す鏡としての読書へ

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